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【日本人初】インディ500を制した男、佐藤琢磨ってどんなドライバー?

2017.06.05

photo by インディ500公式サイト

1911年から開催されている伝統あるレース、インディ500。101回目のウィナーとなったのは、何と日本の佐藤琢磨でした。この衝撃は普段モータースポーツを報じないメディアでも大きく取り上げられることになり、彼は一躍「時の人」となりました。今回はそんなレーシングドライバーである佐藤琢磨をフィーチャーし、これまでの経歴などを見ていくことにしましょう。偉大なレースを制するまで、彼はどんなドライバー人生を歩んできたのでしょうか。

運命を決定づけた、少年の日の出来事

佐藤琢磨は1977年1月28日、東京新宿区にて生まれます。ごく普通の家庭で育った琢磨少年でしたが、小学生の時に見たある出来事でその後の人生が決定づけられることになります。それは1987年に鈴鹿サーキットで初開催された、F1日本GPでした。そのスピード、エンジンの唸り、タイヤの匂い…好奇心旺盛な年ごろの少年の心を惹きつけるには十分過ぎるものだったのでしょう。特に琢磨少年を夢中にしたのが、ロータスに所属していた若き日のアイルトン・セナでした。この日のセナは優勝こそ逃しました(優勝はフェラーリのゲルハルト・ベルガ―)が、粘りの走りで2位入賞。これに感動した琢磨少年は、いつか自分もモーターレーシングの道に進んでみたいという大きな憧れを抱くのです。

キャリアスタートは、自転車から

とはいえ、ごく普通の家庭でモータースポーツの世界に飛び込むのは困難を極めることです。そこで琢磨は中学に進学し、陸上部に入部。肌でスピードの世界を感じることからスタートします。そして高校生になってからは自転車競技の世界に出会い、地元のサイクルスポーツ店「たかだフレンド」のクラブに参加。本格的な自転車競技人生を歩むことになります。その一方で、高校では担任を顧問として自転車部を創部。1994年にはインターハイを制するなど、実力を大きくアピールしました。その後も早稲田大学に進学し、自転車競技を継続。インカレや国体で優秀な成績を収めますが、やはりモータースポーツへの思いは捨てきれず、大学を休学して大きく路線変更することになります。

大学休学、そして―

1996年にホンダは鈴鹿サーキットと組んで、若手レーシングドライバー育成のためのレーシングスクールである鈴鹿サーキット・レーシング・スクール・フォーミュラ(SRS-F)を立ち上げました。これを知った琢磨は、まずそのスクールに参加すべくレーシングカートを始めます。名門アルデックス・ジャパンに所属した琢磨は才能を開花させ、翌年には念願のSRS-Fへ入学を果たします。セレクション時に当初予定されていなかった面接試験をスクール側に設けさせたというエピソードは、とても有名です。ここで琢磨はF1への夢や思いを語り、競争率10倍という狭き門をクリアしました。こうして琢磨は、本格的にモータースポーツの道へと足を踏み入れることになったのです。

グランドスラムを果たしたF3時代

1997年、SRS-Fを首席で卒業した琢磨は全日本F3を経験したのち、単身渡英。新たなキャリアをスタートさせるべく、フォーミュラ・ボクスホールJr.に参戦します。その後2000年からは、イギリスF3にステップアップ。参戦初年度はクラッシュなども多く見受けられ精彩を欠くシーズンとなりましたが、翌2001年は大きく飛躍しました。この年琢磨は、下馬評どおりチャンピオンを獲得。イギリスF3にて日本人がチャンピオンを獲得するのは、初めてのことでした。そしてこの年は、F1への登竜門といわれるマールボロマスターズやマカオGPも制覇。F3ドライバーの頂点に登りつめ、F1行きが確実となりました。

栄光と挫折を味わったF1時代

2002年、琢磨は史上7人目のフルタイムF1ドライバーとしてジョーダンよりデビューしました。初めてカートに乗ってからわずか5年で、彼は世界最高峰のモータースポーツのシートを獲得したのです。参戦初年度はチームの基盤が不安定であったため、日本GPでの5位が最高位でしたが、時折光る走りはジャーナリストの話題の種となっていました。

琢磨のF1での活躍といえば、2004年のアメリカGPがもっとも記憶に残るという方も多いのではないでしょうか。このレースで彼は、ミハエル・シューマッハ、ルーベンス・バリチェロに次ぐ3位フィニッシュで表彰台を獲得。鈴木亜久里に続いて、日本人最高位タイ記録という偉業を成し遂げました。

2006年にはその鈴木亜久里が立ち上げた新チーム、スーパーアグリに移籍。エースとしてチームを引っ張る琢磨の姿は、日本のファンの結束力をも高めていきました。しかしそのチームも資金難には勝てず、2008年には撤退を発表。琢磨はF1でのシートを失います。

その後もスクーデリア・トロ・ロッソと交渉を重ねてテストドライブを行うところまでこぎ着けますが、シートを得ることはできませんでした。

心機一転、アメリカにて再スタート

その後も複数のF1チームと交渉を行った琢磨でしたが、2010年よりインディカー・シリーズで走ることを決めます。初テストでは上位に食い込むなど、手ごたえを感じるには十分なものでした。2010~2011年はKVレーシングからエントリーしていましたが、2012年はレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングに移籍。第4戦のサンパウロでは25位スタートから追い上げを見せ、自己最高の3位フィニッシュを達成します。これにより、琢磨は日本人として初めてF1とインディカー・シリーズの両方で表彰台に立ったことになります。

2013年、チームをA.J.フォイト・エンタープライズに移籍して迎えた第3戦ロングビーチにて、琢磨は日本人としてインディカー初優勝を果たします。これはトップフォーミュラ(日本国内のものを除く)の歴史の中でも初の快挙となります。

そして2017年。アンドレッティ・オートスポート(AA)に移籍した琢磨は、インディ500優勝という偉業を達成したのです。

ついに琢磨が頂点へ、インディ500を振り返る

そんな琢磨が制した今年のインディ500とはどんなレースだったのか、あらためて振り返ってみましょう。5月28日に行われた決勝、ポールポジションを獲得したのはスコット・ディクソンでした。しかしセッティングは万全でなかったようで、序盤のレースの主導権はAAのアレキサンダー・ロッシが握ります。そして電撃参戦で話題になったフェルナンド・アロンソもこれに続き、現役F1ドライバーの底力を見せつけました。いっぽう4番手スタートの琢磨はピットでのミスなどが響き、一時17位まで後退。しかし、ここからじわじわと追い上げていきます。

今年のインディ500は、昨シーズンからエアロパーツの開発が凍結されたこともあってか、接近戦がとても多いレースでした。クラッシュも多発、ディクソンは単独クラッシュしたジェイ・ハワードと接触、リタイアとなります。またウィル・パワー、ジェイムズ・ヒンチクリフ、オリオール・セルビア、ジョセフ・ニューガーデンがウォールの餌食となり、相次いでリタイア。荒れたレース展開となります。

アロンソがエンジントラブルでマシンを降りる頃には、レースは終盤戦に。トップ争いはマックス・チルトン、エド・ジョーンズ、エリオ・カストロネベス、そして琢磨に絞り込まれました。そして195周目、ついに琢磨はカストロネベスを抜き去ってトップに躍り出ます。こうして想像を絶する超接近戦を制した琢磨は、最も早くブリックヤードにたどり着きました。2位のカストロネベスとの差は、わずか0.2011秒。こうして琢磨は、日本人としては初の歴史的快挙を成し遂げたのです。

日本には、TAKUMAがいる。どんどん後に続いてほしい

ゴール後、琢磨はこのような言葉を残しています。

「ありがとう。ずっと夢を追いかけて、それが今日叶いました。信じることって本当に大切。たくさんの応援を本当にありがとう!!心から感謝しています」

音速の貴公子に憧れた少年が夢見た、スピードの世界。その夢を信じて諦めず、自分のものにするために遮二無二突き進んでいったからこそ、この栄冠を勝ち取ることができたのだと思います。日本のモータスポーツファンとしては今後の琢磨の活躍が楽しみなのと同時に、これに続く若い世代の台頭に期待したいところです。多くの人に夢を与えたであろう今回の彼の勝利、これに刺激されてぜひ若者が後にどんどん続いていってほしいですね。

佐藤琢磨公式LINEブログ

【関連項目】

世界三大レース特集:すべては最速の称号のために。インディ500【3か月連続連載企画】

「Veni,Vidi,Vici(来た、見た、勝った)」、F1黎明期のホンダは世界とどう戦ったのか?

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