理想を追い求めた『20世紀最高の自動車設計者』フェルディナンド・ポルシェの生涯

理想を追い求めた『20世紀最高の自動車設計者』フェルディナンド・ポルシェの生涯
     
   
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ポルシェ博士の愛称で今も親しまれるフェルディナンド・ポルシェ。天才的な自動車設計者だった彼の功績は、死後半世紀が経った今も世界をリードし続けています。例えば2016年11月に販売され、大ヒットとなっている日産・ノートe-POWER。その目玉と言えるシリーズ方式ハイブリッドシステムを、ポルシェ博士は第二次世界大戦時に、すでに実用化していたのです。今回はそんな『20世紀最高の自動車設計者』フェルディナント・ポルシェ博士について、生い立ちや名言、彼の残した作品とともにお伝えします。

フェルディナンドポルシェの生い立ち 

才能にあふれた青年時代

1875年9月、ブリキ細工職人であったアントン・ポルシェの次男として、オーストリア=ハンガリー帝国のマッフェルスドルフ(現在のチェコ共和国・リベレツ=ヴラティスラヴィツェ・ナト・ニソウ)でフェルディナンド・ポルシェは生を受けます。長男が早世したため、父はフェルディナンドを跡取りに考えていましたが、ポルシェは電気や機械工学に突出した才能と情熱を持っていました。自力で製作した電源設備で自宅に電気を引いてしまったポルシェを見て、最初は反発した父も最後にはその才能を認めます。父から許しを得たポルシェは1894年、首都ウィーンに移り、ウィーン大学工学部の学生となりました。

大学で学びながら勤めていた電気機器会社でその才能を発揮したフェルディナンドは大学を中退、その後わずか4年で検査室室長に就任します。その頃自動車にも興味を持ち、モーターについての特許を申請するなどしていたこともあり、電気自動車を手がけていたヤーコプ・ローナーに引き抜かれます。これが、自動車技術者としてのキャリアのスタートとなりました。

 数々の功績を残したダイムラー時代

ヤーコプ・ローナーではハブにモーターを搭載する電気自動車「ローナー ポルシェ」を開発、現在のEVに使用されているインホイールモーターの先駆けともいえる技術を採用していました。

事業規模の大きな会社でさらに自身の研究を進めようと考えたフェルディナンドは、1906年、後のダイムラー・ベンツにあたるアウストロ・ダイムラーに移籍。技術部長として迎えられた彼はスポーツカーの開発から飛行機エンジンの開発まで、多くのエンジンや自動車の設計に携わります。その数々の功績が認められ、1917年にウィーン工学大学から名誉博士号を授与。大学を卒業していないポルシェが博士と呼ばれるのはこれが理由です。

1923年ダイムラー・モトーレンの主任設計者となり、数々のレーシングカーを手がけて成功を収めたポルシェでしたが、意欲的だった大衆車の開発で第一次世界大戦後の不況により合併したベンツ陣営の経営者と対立。1928年にダイムラー・ベンツを去ることになります。

独立、理想の大衆車、そしてナチス

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1931年ドイツ・シュトゥットガルトで自動車の設計・コンサルタントを行うポルシェ事務所を開設。委託された自動車の設計を行いながら、自身の理想だった大衆車の設計を行っていましたが、そちらはスポンサーの資金不足などで思うように進みませんでした。そんな中登場するのがナチスのアドルフ・ヒトラーです。彼から国民車(ドイツ語でフォルクスワーゲン)の開発依頼を受けたことで、理想の大衆車をついに実現する機会を得たのです。この時に開発されたのがビートルの愛称で親しまれ、ポルシェの代表作とも言われるフォルクスワーゲン・タイプ1です。

以降ナチスは軍用車両や戦車の開発もポルシェに依頼するようになります。ナチス党の政治理念には批判的であったポルシェですが、ナチスをスポンサーとしてシュビムワーゲンやティーガー重戦車など、ポルシェの代表作として有名な車両を数多く開発しました。皮肉にもこの功績がナチスに多大な貢献をしたとされ、戦後、戦争犯罪人としてポルシェは収容所に収監されてしまいます。

1947年に釈放されてからは健康面が優れませんでした。長男のフェリー・ポルシェによる会社運営を見守りつつ、1950年11月に息を引き取りました。享年75歳。「20世紀最高の自動車設計者」として、今もその功績は称えられています。

フェルディナンド・ポルシェの残した名言

「私の夢を実現してくれる車はどこを探しても見つからなかった。だから自分でつくることにした」

ポルシェ博士にはいくつもの名言があることで知られていますが、彼の人生を物語っているのがこの一文です。まさにこれを実現させるためにダイムラー・ベンツを退職し、ナチスをスポンサーに夢を実現したわけですが、その代償は少なくなかったように思えます。

「技術的問題を解決するためには美的観点からも納得のいくものでなければならない」

「ユーザーの立場で考えた場合、多少でも不利となりうる要素は決して採用すべきではない」

この2つの言葉は、今現在もポルシェというブランドを支えている美点そのものです。機能性・実用性とデザインの高い次元での融合が、高級車ブランドとしてのポルシェのアイデンティティであり、だからこそパナメーラやカイエンのような車も成立するのだと思えます。

今なお残るポルシェ一族の系譜

子孫たちによる輝かしい功績もまた、ポルシェ博士が残した功績の1つです。ここではポルシェ博士の息子世代・孫世代から、一族の代表的な人物を紹介します。

フェルディナンド・アントン・エルンスト・ポルシェ

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フェリー・ポルシェの愛称で親しまれた、ポルシェ博士の長男です。ポルシェ博士の収監後実質的なポルシェ事務所の運営を取り仕切り、後にポルシェ365といった名車を生み出しました。

フェルディナンド・ピエヒ

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2015年までフォルクスワーゲンの取締役会会長・監査役会会長などを歴任した人物で、ポルシェの孫にあたります。ピエヒは母方の姓になります。技術者として活躍した人物で、最大の功績はアウディの4WDシステム「クアトロ」と、特徴的な5気筒エンジンを開発です。この功績により彼は1988年にアウディの取締役会会長に就任し、その後グループ全体の会長にまで登り詰めることになります。

フェルディナンド・ポルシェの代表的な作品たち

フォルクスワーゲン タイプ1

ナチスのスポンサードにより実現した、ポルシェの夢見た大衆車です。RRレイアウトを採用したコンパクトカーで、その形からビートルの愛称で親しまれました。2016年現在フォルクスワーゲンから販売されているニュー ビートルは、このタイプ1のデザインをリファインし企画されたモデルです。

ローナー ポルシェ

ポルシェが1899年に開発したインホイールモーター搭載のEV(電気自動車)です。後に航続距離を伸ばす目的で発電用のエンジンを搭載することも考案し、軍用車両などに応用されました。これは2016年に発売されたノートe-POWERのシリーズ方式ハイブリッドシステムと同一の発想です。

ポルシェ ティーガー重戦車

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ティーガーは第二次世界大戦でナチスが投入した重戦車です。名付け親もポルシェ博士。ポルシェ案とヘンシェル案という2つの案が提案されており、量産された大部分の車両はヘンシェル案の車両です。ポルシェ案は試作車として一部製作されたものが存在し、量産車と区別するためポルシェ ティーガーなどと呼ばれています。最大の特徴はローナーポルシェで少し触れたシリーズ式ハイブリッドと同様のガソリンエンジンで発電し、モーターで駆動を行うシステムを採用している点です。クラッチが不要なモーターを採用することで信頼性の向上などを狙ったものでしたが、実際に走らせると電気系統などに異常が続発、信頼性の観点から正規採用は見送られ、試作車が一部生産されただけに終わりました。

まとめ

ポルシェ博士は電気工学の天才でした。ローナー ポルシェをはじめ彼の残した技術は100年以上経った現代の自動車にも脈々と息づいています。フェルディナンド・ピエヒなど子孫の活躍も目覚ましく、ポルシェ博士が自動車業界全体に与えた影響は非常に大きいものでした。

ただ、彼の生い立ちを見ていると、自分の理想を実現するために走り続けた人生だったように思えてなりません。ポルシェ博士のような天才的な技術者が、理想を求めて走り続けるからこそ、今日の自動車業界の発展はあるのでしょう。

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