「Veni,Vidi,Vici(来た、見た、勝った)」、F1黎明期のホンダは世界とどう戦ったのか?

     
   

今シーズンのF1はヨーロッパラウンドを迎え、フェラーリvsメルセデスの一騎打ちの様相を早くも呈しています。そんな中、唯一の日本製エンジンとして気を吐くのがホンダです。ご存知のとおり、ホンダのF1活動には非常に長い歴史があります。そこで今回は、いわゆる「第一期(1964~1968年)」と呼ばれる時代にフォーカスして特集。日本人がまだよくF1というものを知らなかった時代、彼らはどのようにして戦ったのでしょうか。

 1960年代の F1 とはどんなものだったのか

ここでホンダのF1活動の話に入る前に、1960年代のF1全体の状況について見ておきましょう。いわゆるF1世界選手権は発足から10年以上が経過、マシンはクーパーによってもたらされた「ミッドシップ革命」を終えていた時期となります。空力性能が重視されつつあったのもこの時代で、ホンダ第一期の後期のマシンではその片鱗をうかがうことができます。しかし、何より大きな変革があったのはエンジンです。1961年から1.5L時代となりましたが、1966年にはすぐに3L規定に移行。この3L規定で猛威を振るったのが、現在も名機として語られるフォード・コスワースDFVエンジンとなります。これらのエンジンを搭載する英国のコンストラクターが勢力を増し、実力を蓄えていた……そんな時代でした。

 一方的な「婚約破棄」からの出発

マン島TTレース。1959年にこの国際的な二輪イベントに初参戦し、1961年には悲願の優勝を果たしたホンダ。すでに世界的な二輪メーカーとしての地位を確立しており、市販車ではスーパーカブが好調な販売を記録していました。誰もが四輪進出を信じていましたが、日本国内では自動車メーカーの新規参入を制限する「特振法」という壁が立ちはだかります。しかしホンダは四輪進出を目指すべく、さらに困難な道を選びます。それこそが「F1参戦」だったのです。

本田技術研究所は型落ちのクーパーT53を手に入れ、F1とは何かを学ぶことから始めました。エンジンは二輪で実績のあったマルチシリンダーとし、V型12気筒、しかもそれを横置きするという非常に斬新なアイデアでまとめられました。エンジンを搭載してもらえるコンストラクターはブラバム、クーパー、ロータスに絞られ、1963年の秋にはロータスに決まりかけていました。しかし1964年に入り、ロータスの創設者コーリン・チャップマンより「お付き合いできなくなった。あしからず」という電報が入り、事態は急変。一方的な「婚約破棄」を告げられたホンダは参戦を諦めるか、自社でシャシーをつくり参戦するかという選択を迫られましたが、結局は後者を選択。急きょ、シャシーの自社開発が始まりました。ちなみにチャップマンがホンダエンジンを断ったのは、コベントリー・クライマックスとのエンジン契約の関係があったからとされていますが、真相はわかっていません。

 【1964年】RA270、疾(はし)る。そして、スターティンググリッドへ

ホンダは1963年にはエンジンをすでに完成させており、次は走行テストを待つのみでした。クーパーT53を改良してテスト車両にする構想もありましたが、当時のホンダが持つ「隙あらば新しいことをやってみたい」という企業風土がそうさせたのか、シャシーを自前で製作してしまうのです。こうして出来上がったRA270は、荒川の河川敷にあったテストコースや当時出来上がったばかりの鈴鹿サーキットで精力的にテストをこなします。しかし前述のようにロータスから突然エンジン供給キャンセルの連絡が入ると、ホンダは自前でレース用シャシーを製作することを決意。RA270のデータをもとにして製作される予定だったRA271が、エンジンテスト用ではなく実戦用のシャシーとして設計されることになりました。

RA271のデビュー戦は、1964年8月に行われたドイツGP。その前月にはシェイクダウンをすでに済ませていたということなので、わずか5か月という超短期間で製作されたことになります。東洋の小さな島国から参戦したこのマシンは大きな注目を浴び、あのチャップマンさえも熱心に観察していたといわれています。

RA271は、この後も同年のイタリアGP、アメリカGPに参戦。オーバーヒートに悩まされますが、この3戦を通して対策の洗い出しに成功し、翌年に活かされることになります。

 【1965年】1.5L時代最後のレースでホンダ初優勝

わずか3レースの参戦、トラブル続出に終わった1964年の雪辱を果たすべく製作されたマシンがRA272です。1966年からは3L化が発表されていたため、RA271の改良版で臨むという位置づけでした。車重の低減、信頼性の向上などがメインテーマとなり、エンジンパワーも230hpへと引き上げられました。軽量化に貢献したのはエンジンで、構造材の変更(マグネシウム合金)などが図られています。また、この年大きく変わったのはドライバー体制でした。前年より起用していたロニー・バックナムに加え、開発能力に優れたリッチー・ギンサーを新たに迎え入れたのです。

この年前半の戦績は、ギンサーが6位をベルギーGPとオランダGPで2回獲得した以外はすべてリタイアと精彩を欠いていましたが、ドイツGPを欠場してエンジンの低重心やエキゾーストの構造変更による出力アップが図られ、完走率が上がっていきました。

そして迎えた最終戦メキシコGP。ギンサーは1周目にトップに立つと、ブラバムのガーニーの猛追を振り切り、見事325kmを走り切り優勝。このレースから復帰した、中島飛行機出身のエンジニアである中村良夫の高地向けセッティングが功を奏したのです。彼はこのレース後、優勝の知らせを本田技研工業の本社宛てに電報で送っています。「Veni,Vidi,Vici(来た、見た、勝った)」(ユリウス・カエサルがゼラの戦いに勝利した際、ガイウス・マティウスに伝えた言葉)と。そして本田宗一郎は「我々は自動車をやる以上、一番困難な道を歩くんだ。勝っておごることなく、勝った原因を追究し、その技術を市販車に入れていく」と報道陣に語りました。

 【1966年】混乱のシーズンでつかんだ4位入賞

エンジン規定が3Lとなった1966年は、混乱のシーズンとなりました。サプライヤーのエンジンが間に合わない、性能が安定しないなどの理由で、各チームともまともに戦えない状況におちいっていたことがその理由となります。こういった中、自前でエンジンを用意できるフェラーリやホンダは有利という見方が強かったのですが、ふたを開けてみるとホンダは開発の遅れが問題としてあがっていました。こうしてマシンが完成したのは、シーズンの折り返し地点が過ぎた第7戦イタリアGPの前でした。

RA273は、最終戦メキシコGPまでの3戦に出走。やはり車両の重量がネックとなり、まともな戦力になることは難しいと考えられていました。しかしこの年はどこも戦闘力が万全でないマシンが多かったので、とにかく完走すれば上位に入るチャンスはあったのです。実際、最終戦ではギンサーが4位に入賞し、波乱のシーズンは幕を閉じました。

 【1967年】体制を一新、英国スタイルでマシンを仕上げる

1967年に入ってもRA273で戦っていたホンダ陣営ですが、これとはコンセプトが反対になる軽量・コンパクトなコスワースDFVがグランプリを席巻し始めます。この事態に苦慮した現場は、ドライバーのジョン・サーティースの紹介でシャシーコンストラクターであるローラ・カーズの門を叩きます。ローラはわずか6週間で、インディカーであるT90をベースとしたRA300を製作。1967年型RA273で使われていた改良タイプのエンジンとギアボックスを搭載し、70kgもの軽量化を達成していたのです。

こうして挑んだ第9戦イタリアGP、このRA300はサーティースのドライブによってデビューウィンを達成。ホンダは通算2勝目、そして新規定になって初の優勝という快挙を遂げました。その後、最終戦メキシコGPでも4位入賞という結果を残しています。ちなみにこのマシンを「ホンドーラ(ホンダ+ローラ)」と呼ぶ人も多いですが、最初にそう呼んだのはドイツのプレス関係者だったといわれています。

 【1968年】空冷vs水冷論争から生まれた2台のマシン

1968年の第2戦スペインGPより、ホンダはニューマシンであるRA301を投入。それはRA300で実行できなかった対策項目を、確実に具現化したモデルでした。ネックであった車重は、モノコック部材をより軽量なマグネシウム合金に変更することで大幅な軽量化を実現。エンジンは吸排気のレイアウトを変更することで、最高出力440hpを絞り出していました。ちなみにこのシャシーも、ローラの協力のもと設計されています。

リザルトとしてはサーティースが11戦してフランスGPで2位、イギリスGPで5位、アメリカGPで3位を記録しましたが、残りはすべてリタイアという非常に完走率の低いマシンでした。しかし、第1期のホンダF1最強の呼び声が高いクルマでもあります。

一方、このシーズンには一風変わったマシンも参戦していました。それがRA302です。「F1は走る実験室」という宗一郎の思いが色濃く反映されたマシンで、当時ホンダが市販車で進めていた空冷方式としたV型8気筒エンジンを搭載。8気筒としたのは、コスワースDFVを意識したのではないかともいわれています(もちろん冷却性能上の問題もあったでしょう)。こちらは純ホンダ体制で製作が進められました。

しかしデビュー戦となった第6戦フランスGPで、その悲劇は起きてしまいます。アクシデントにより、ドライバーのジョー・シュレッサーが帰らぬ人となってしまうのです。結局RA302は、その後イタリアGPを走ったのみで実戦から退きました。

そしてこの年をもって、ホンダはF1から撤退。市販車の開発に注力することが、その主な理由です。

 たかが2勝、されど2勝。偉大なるホンダの軌跡

第二期の「強いホンダ」を知っている世代としては、第一期の2勝という数字はとても小さなものに思えるかもしれません。しかしこれを「たかが2勝」と思っていては、その本質を見誤ってしまいます。ひとつは1.5L時代最後に勝ち取った殊勲、そしてもうひとつは3Lという新たな時代の幕開けのタイミングで得た栄冠なのです。このふたつの勝利は、それぞれ重みが違います。時代に埋もれがちな事実ですが「されど2勝」であったことが、今回おわかりいただけたのではないでしょうか。

日出ずる国からの尖兵は、この後世界を席巻する一大勢力へと変貌を遂げていきます。その土壌づくりとなったのが、この第一期といえるでしょう。

最後に、モータースポーツ、そしてホンダF1第一期に多大な貢献を果たされたジョン・サーティース氏が3月10日、83歳で亡くなりました。謹んでお悔やみ申し上げます。

【関連項目】

本田宗一郎が目指した世界一への歩み、自動車メーカー「ホンダ」の歴史を振り返る

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【特別企画】茨城県のホンダカーズで女性スタッフにオススメの試乗車を案内してもらった

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